2026/06/07 15:00 公開
最初の一枚を作ったとき、研究者たちはその性能に驚いた。十枚を作ったとき、研究者たちは、その再現性に驚いた。そして百枚を作ったとき、ようやく本当の評価が始まった。
試作ラインの片隅に積まれたケースには、一枚ずつ番号が振られていた。
HBM試作機。001、002、003。そして100まで。
量産と呼ぶには少なすぎる。しかし研究用途としては異例の数だった。通常なら研究室一つに一枚回れば良い方だ。それが百枚。しかも、ほぼ同一性能。大学内だけで消費するには贅沢すぎる数だった。
配布先は広かった。機械学習研究室。材料研究室。流体解析研究室。ロボティクス研究室。天文学研究室。創薬研究室。計算化学研究室。構造解析研究室。
その他にも、計算機を使う研究室にはほぼ声がかかった。最初の数日は静かで誰もが慎重だった。新しい試作機というものは、最初は大抵期待外れだからだ。だが一週間ほど経ったころに報告書が増え始めた。
最初に騒ぎ始めたのは機械学習研究室だった。
「学習が終わるのが早い」
単純な感想だった。だが研究者にとっては重大だった。今まで一週間かけていた実験が四日で終わる。十回しか試せなかった条件が二十回試せる。失敗を恐れずに済む。数字以上に研究の進め方が変わっていた。
ある准教授は報告書にこう書いていた。『性能向上そのものより、試行回数が増える効果が大きい』
別の研究者は『研究者の心理的負担が減る』と書いていた。
玲花はその文章を見て少し笑った。
「心理的負担って」
若い技術者が答える。
「失敗しても次を回せるんです。それは大きいですよ」
材料研究室では別の現象が起きていた。新素材探索。今までは候補を絞り込んで計算していた。
だが「全部回した」という報告が上がった。当然、計算量は何倍にもなる。しかし終わっていた。その結果予想していなかった有望材料が見つかった。
研究室は大騒ぎになった。
「こんなの候補にも入れてなかったぞ」
「計算資源が足りなくて切ったやつだ」
創薬研究室も似たような反応だった。候補化合物の探索数が増える。
シミュレーション回数が増える。失敗が増える。しかし成功も増える。研究者たちは気づき始めていた。性能向上とは単に速くなることではない。
『諦めていた計算ができる』
ことなのだと。一方で、予想外の報告もあった。
天文学研究室。
「観測データ全部突っ込んでみた」
という雑な説明と共に送られてきた報告。従来は前処理で大量のデータを捨てていた。しかし今回は違った。
保存、解析、比較、全部実施。その結果「ノイズだと思っていたものがノイズじゃなかった」という結果が出た。大学内で少し騒ぎになった。
数週間後。試作ライン会議室。大量の報告書が机の上に並ぶ。
明里は途中で諦めた。
「多すぎる」
玲花も珍しく疲れた顔をしている。
「百件分読むの?」
若い技術者が苦笑した。
「全部は無理です」
だが、一つだけ共通しているものがあった。
どの研究室も『速い』とは書いていない。
『実験回数が増えた』
『探索範囲が広がった』
『妥協しなくて済んだ』
『条件を削らなくて済んだ』
そういう文章ばかりだった。桜庭は静かに資料を閉じた。窓の外では、研究棟の灯りがまだ消えていない。夜遅い時間だというのに、多くの部屋に明かりが残っている。
以前なら計算待ちで帰宅していた研究者たちが今は次の実験を考えている。
「面白いな」と桜庭が呟く。
誰も何も言わない。「皆、性能の話をしない」
確かにそうだった。TFLOPSも帯域も消費電力も重要ではある。
だが報告書の中心にあるのは別のものだった。
研究速度。思考速度。試行回数。
明里が窓の外を見ながら言う。
「道具なんだね」
「そうだ」と桜庭は頷く。
「研究者が欲しいのは性能じゃない、発見する機会だ」
静かな沈黙が流れる。百枚のHBMは大学を変えた。世界を変えたわけではない。産業を変えたわけでもない。だが、大学の中では確実に何かが変わっていた。
以前より多くの仮説が試される。以前より多くの失敗が許される。以前より多くの偶然が生まれる。研究という営みそのものが、少しだけ加速していた。そして蓮は、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
レアアースの時もそうだった。技術そのものより。それを使う人間の方が面白い。百枚のチップが生み出したのは計算能力ではない。研究者たちの「もう一回試してみよう」という気持ちだった。それこそが、最も大きな変化だった。
◆計算資源は誰のものか
百枚のHBMを配布してから二か月。大学内の空気は、少し変わり始めていた。最初は誰もが喜んだ。計算が速くなる。実験回数が増える。論文が進む。
だが技術が定着し始めると、別の問題が見えてくる。需要の偏りだった。最初に異変に気づいたのは、計算資源管理を担当している技術職員だった。
「おかしい」
利用ログを眺めながら呟く。HBM搭載サーバー利用率。昼間:95%。夜間:98%。休日:97%。
「休んでない……」
普通の研究設備なら、波がある。
試験期間。学会前。論文締切前。忙しい時期と暇な時期がある。だがこの設備には、それがなかった。常に埋まっている。数日後。
計算センターに苦情が届く。
「予約が取れません」
「三週間待ちです」
「実験が止まります」
さらに「また機械学習研究室ですか」というメール。
管理者は頭を抱えた。利用統計を確認する。そして苦笑した。機械学習系が全体利用時間の47%。
「半分近い……」
次が創薬。その次が流体解析。天文学。材料探索。ロボティクス。他分野は分散している。しかしAI関連だけ突出していた。
会議が開かれた。参加者は各研究室の代表。桜庭、玲花、若い技術者、そして利用者たち。
開始五分で空気が重くなる。
「使いすぎです」
誰かが言った。機械学習研究室の准教授が即答する。
「必要だから使っています」
「こちらも必要です」
「予約ルールは守っています」
「でも全部埋まる」
議論が始まる。
創薬研究者。
「候補探索が遅れると研究全体が止まる」
機械学習研究者。
「モデル学習も同じです」
流体解析研究者。
「一週間単位で計算を回すんです」
天文学研究者。
「観測期間に合わせる必要があります」
全員正しい。だから困る。
明里は会議の後ろでそれを聞いていた。
「みんな困ってる」と玲花が頷く。
「だから厄介なの悪者がいない」
その通りだった。誰もルールを破っていない。誰も独占しようとしていない。ただ、全員が本気で使っている。若い技術者が利用グラフを映す。利用率ほぼ100%。
「皆さん設備が不足しています」
誰も反論しない。数字が証明していた。すると後ろの席から声が上がる。
「増やせませんか」
空気が止まる。
「百枚作れたんですよね?」
「二百枚」
「三百枚」
「もっと作れば」
部屋が静かになる。皆が同じことを考えていた。だが誰も口にしなかった。
桜庭が静かに答える。
「作るのは簡単だ、問題はその後だ」
電力。冷却。運用。保守。
ホワイトボードに並べる。
「HBMだけでは動かない。サーバーがいる、ラックがいる、空調がいる、管理者もいる」
研究者たちの熱気が少し冷える。
「ゲームみたいに増殖できないんだ」と明里が小さく呟く。
「現実ですから」と若い技術者が笑う。
だが会議の終盤、別の空気が生まれ始めていた。
設備が足りない。つまり需要がある。利用者がいる。成果も出ている。
そして百枚あっても足りない。桜庭は窓の外を見る。研究棟。その向こうにある空き地。昔、別の研究施設を建てる予定だった場所。
「……なるほど」と小さく呟く。
玲花が気づく。
「何考えてるの」
桜庭は少し笑った。
「計算センターだ」
「え?」
「研究室ごとの設備では限界があるなら、大学全体で持てばいい」
その言葉に会議室が静まり返る。冗談ではないと誰もが分かった。
今までの問題。予約不足。利用競争。偏り。それらを解決する方法が一つだけある。もっと大きくする。その瞬間。議論は「どう分けるか」から、 「どう増やすか」へ変わり始めていた。
そして蓮は、その様子を少し離れた席から眺めていた。レアアースの時もそうだった。足りなくなると人は争う。そしてもっと作ろうとする。技術が成功した時に起きることは、いつも同じだった。
◆余った時間をどうするか
大学全体での計算センター構想が動き始めてから数か月。議論の中心は、「どう作るか」から、「どう運用するか」へ移りつつあった。
実際に試験運用が始まると、予想していたことも、予想していなかったことも見えてきた。利用率は高い、非常に高い。だが常に100%ではなかった。
平日の昼:利用率95%。
夜:80%。
休日:60%。
大型学会直前:100%。
学会終了後:40%。
会議室のスクリーンにグラフが映る。
若い技術者が説明する。
「平均すると高利用率です、ただし波があります」
創薬研究者が頷く。
「締切があるからな」
流体解析研究者も同意する。
「大型計算は時期が偏る」
天文学研究者。
「観測期間もある」
つまり研究需要は大きい。しかし完全には重ならない。
玲花が腕を組む。
「だから空きが出る」
「はい」
若い技術者が頷く。問題は、その空きだった。設備は高価だ。
サーバー、冷却設備、電源設備、保守要員。動いていても金がかかる。止まっていても金がかかる。会議室が静かになる。
その時経済学部から参加していた教授が口を開いた。
「貸し出してはどうですか」
空気が止まる。
「学外へ?」
「そうです」
スクリーンへ近づく。
「空いている時間だけ」
「大学内利用を最優先」
「余った時間だけ外部へ提供」
創薬研究者が眉をひそめる。
「企業に?」
「企業でも」
「他大学でも」
「公的研究機関でも」
確かに理屈は通る。余っている時間。使われない設備。そこへ需要を流し込む。
明里が小さく呟く。
「ホテルみたい」
若い技術者が笑う。
「計算資源版ですね」
だが問題もあった。
「学内利用が圧迫される」と誰かが言う。
「優先順位をどうする」
「研究データの扱いは」
「セキュリティは」
質問が飛ぶ。桜庭はしばらく黙って聞いていた。そして静かに言った。
「まず前提を決めよう」
会議室が静かになる。
「この施設は誰のためにある」
誰も答えない。桜庭が続ける。
「大学の研究のためだ収益のためではない」
全員が頷く。
「ならば」とホワイトボードに書く。
・学内優先
・余剰時間を学外提供
「順番はこうだ。学内需要を削ってまで貸さない」
「だが、空いているなら使わせればいい」
議論は続いた。
・利用料金。
・予約期間。
・優先順位。
・データ保護。
その中で、ある報告が提出された。近隣大学からの問い合わせ。
「利用できないか」
国立研究所からの問い合わせ。
「共同研究枠はあるか」
企業研究所からの問い合わせ。
「試験利用を希望」
会議室が静かになる。
まだ正式発表すらしていない。なのにもう需要が来ている。
玲花がため息をつく。
「情報漏れてるわね」
若い技術者が苦笑する。
「研究者ネットワークです」
「早い」
「異常に」
皆が笑う。だがその笑いの裏で、誰もが気づいていた。これは大学内だけの話ではなくなり始めている。レアアースの時と同じだ。
最初は一研究室。次に大学。その次は外。
会議終了後、明里は窓の外を眺めていた。建設中の新計算棟はまだ骨組みだけ。しかし、すでに予定より大きくなっている。
「足りると思う?」
蓮に聞く。蓮はしばらく考えた。そして静かに答えた。
「たぶん足りなくなります」
明里は笑った。その答えが、一番現実的だった。需要というものは満たされると消えるのではない。むしろ満たされた瞬間に、もっと大きくなる。計算センターもまた、その法則から逃れられそうになかった。