2026/06/18 15:00 公開
国立研究機関の超高分解能解析室で大学から提供されたHBM試料の正式な解析が始まった。参加者はメモリメーカー、半導体メーカー、材料メーカー、製造装置メーカーの日本の第一線の技術者たちが集まった。
最初は皆に自信があった。性能は驚異的だったが構造は説明できるはずとそう思っていた。電子顕微鏡画像の最初の断面がスクリーンに映ると皆が静かになる。
技術者A「綺麗だな」
技術者B「綺麗すぎる」
層構造が異常なほど均一で結晶欠陥がほとんど見つからない。界面剥離も見当たらない。不純物分布は理想値に近い。
材料メーカーの技術者。
「測定場所変えてください」
別の場所を測るもまた同じで、さらに別の場所も同じ。普通ならあるはずのばらつきが見当たらない。製造誤差、温度ムラ、応力集中のどこかに痕跡が残るのが当たり前だが、見つからない。
今度は配線解析で三次元構造を再構成する。
解析担当者が眉をひそめる。
「おかしい」
「何が?」
「位置合わせが」
HBMは積層構造で各層の位置合わせ精度が重要となる。普通は微妙なズレがあるはずだ。
「全部揃っている」
「どのくらい?」
「測定限界近い」
会議室がしんと静まりかえる。
技術者の一人が冗談を言う。
「神様が作ったのか」
誰も笑わえないし冗談にもなっていない。材料分析、応力分布、結晶構造とさらに解析が進む。そして今度は本当に全員が困惑する。
「待ってください、これはおかしい」と材料メーカー技術者が言う。
結晶方位マップがスクリーンに表示される。本来なら微小な乱れがあるところだ。
「ほぼ理想結晶です」
四十年の経験があるベテラン技術者が初めて口にした。
「見たことがない」
「最先端工場でも?」
「ない」
「研究試料でも?」
「ない」
さらに歩留まり推定のために解析チームが計算する。理論値が理想的で推定歩留まりが異常に高い。
技術者たちは顔を見合わせる。
「そんな工場どこにある」
そんな工場は存在しないから誰も答えられない。午後から議論が始まる。
仮説1:極端な選別品の可能性は否定され運用品と一致。
仮説2:特殊研究設備の可能性は否定的で設備痕跡なし。
仮説3:未知の製造法は否定できない。
すると、製造装置メーカーの技術顧問が言う。
「逆なんだ、我々は製造方法を推定しようとしている」
「だが製造痕跡がない」
その言葉が最も正確だった。普通の半導体は完成品を見ると工程が見える。露光、成膜、エッチング、研磨の全て痕跡が残るはずだ。しかしこのHBMには工程の痕跡が異常に少ない。
「まるで最初から完成形だった」かのように見える。
夜の解析チームの臨時会議でのこと。スクリーンには断面写真が映るが誰も喋らない。数十分経ったあと若手研究者が小さく言った。
「これ本当に半導体ですよね?」
初めて聞くような質問だったが、誰も咎めなかった。電気的にはHBMで性能もHBMで構造もHBM。なのに製造の常識だけが当てはまらない。
最終報告書の下書きには極めて異例の文章が書かれることになる。
「解析の結果、試料は高性能HBM相当の構造を有することを確認した。」
その次の一文を技術者たちは何度も修正した。しかし最後まで消えなかった。
「ただし、既知の製造工程のみでは本試料の形成過程を合理的に説明できない。」
それは半導体業界の人間が最も書きたくない種類の結論だった。
◆「公開しない」
解析報告書が大学へ届いたのは梅雨入り直前だった。桜庭研究室。会議室。机の上には報告書が積まれている。
国立研究機関、半導体メーカー連合、評価委員会。それぞれの報告書の内容は少しずつ違う。しかし、結論はほぼ同じだった。性能は本物で構造も本物で製造方法は説明できない。
明里が最後のページをめくる。
「ずいぶん困ってるね」
玲花が苦笑する。
「そりゃ困るわよ。構造は見える、性能も測れる、でも作り方が分からない」
技術者としては悪夢だった。一方で大学側にも決断が迫られていた。国からの問い合わせや企業からの問い合わせ、他大学からの問い合わせなど最近は内容も変わっている。
「共同開発しませんか」
「技術移転は可能ですか」
「ライセンス契約は」
「製造方法の共同研究を」
以前のような見学依頼ではない本格的だった。
大学執行部、計算センター、研究室代表の関係者が集まった。議題は今後の方針について。
最初に話し始めたのは若い技術者だった。
「選択肢は三つあります」
スクリーンに表示される。
案1:技術公開
案2:限定公開
案3:非公開
会議室が静かになる。
案1:技術公開。全国の大学、企業、研究機関の皆が利用できるのは理想的に見える。
しかし玲花が首を振る。
「無理、公開できる形になっていない」と即答だった。
全員が頷く。最大の問題は蓮が再現手順を書けないし、説明も難しく論文化もできなかった。
案2:限定公開。共同研究先と国家プロジェクトだけに公開することも議論された。
しかし若手研究者が言う。
「結局同じです。説明できない技術は移転できません」
残るのは。
案3:非公開。製造方法を公開しないが成果物は提供する。
ここで桜庭が口を開いた。
「そもそも我々の目的は何だった? 半導体産業振興か国家戦略か技術覇権か、いや違う。」
明里が答えた。
「研究を進めること」
桜庭が頷く。
「そうだ、計算資源不足を解決する。それが出発点だった」
会議室の空気が変わる。いつの間にかが大きくなりすぎていた。国家戦略、産業政策、国際競争。だが大学が最初にやっていたことは単純だった。研究者に計算資源を渡す、ただそれだけだ。
若い技術者が言う。
「ならデータセンター向けに作り続けるのが正解では」
大学内と共同利用、研究用途へ供給し製造法は非公開。
玲花も頷く。
「供給責任も持てる。無理な量産競争もしなくて済む」
計算センター運営責任者。
「需要はいっぱいあり、むしろどんどん増えています」
企業、大学向け利用や国家プロジェクトで計算需要は増える一方だ。
すると、これまで黙っていた蓮が話し始めた。
「作ることはできます。ただ全部に供給することはできません」
その言葉は重かった。技術的には可能だが時間は有限。だからどこへ供給するかを選ぶ必要がある。最終的な結論は全会一致だった。
大学方針
・製造方法は非公開
・技術移転しない
・ライセンスしない
・ただし大学計算センター向けに継続製造
・共同利用計算基盤向けに供給
・研究用途を最優先
会議終了後。窓の外には第二計算棟がほぼ完成していた。
明里が眺める。
「怒る人も出そう」
玲花が肩をすくめる。
「出るでしょうね。でも少なくとも研究は進む」
完成しつつある建物を見る。
数日後に大学は正式発表を行う。製造方法は公開しないし技術移転もしない。一方で共同利用計算基盤の拡大する。
第三計算棟構想で研究用途向け供給継続も同時発表された。その発表を見た研究者たちの反応は意外で失望よりも安堵が多かった。
理由は「計算資源が使えるなら作り方は分からなくてもいい研究は進められる」と単純だった。そして大学は半導体メーカーでも国家研究所でもなく、いつの間にか日本最大級の研究計算基盤供給拠点へと変わり始めていた。
◆「海外も気付き始めた」
大学が正式に方針を発表してから二か月たった。国内では議論が落ち着き始めていた。作り方は秘密だが計算資源も研究成果も増えていった。
「よく分からないが使える」と認識が広がり始めていた。
しかし国内で落ち着き始めた頃に海外が騒ぎ始める。最初は学術界である日海外の研究者から問い合わせが届く。
「共同利用枠に応募できますか」
さらに翌週は別の大学で
「計算資源の利用条件を知りたい」
「アクセラレータの論文は公開予定か」と問い合わせが増え続ける。
計算センター事務局の担当職員が頭を抱える。
「英語のメールが止まらない」
研究者向け窓口は一日数件だった問い合わせが数十件になっていた。
そして海外メディアのある海外テクノロジー誌の記事タイトル。
「Japanese University Builds What Industry Cannot Obtain」"日本の大学が、業界が入手できないものを作っている"
別の記事では「The Mystery Computing Cluster」"謎の計算クラスタ"
記事内容は推測だらけだった。国家プロジェクト説、秘密研究説、軍事研究説とどれも外れている。
しかし一つだけ正しいは誰も説明できていないことだ。海外半導体メーカーでも話題になる。
アメリカ、台湾、韓国、欧州の技術会議の場でスクリーンに解析結果が映る。
技術者A。「日本の大学か」
技術者B。「本当に大学なのか?」
彼らも日本と同じ反応だった。構造と性能を見てから困惑するのが世界共通だった。
ある欧州メーカーの研究責任者。
「もし再現可能なら半導体産業そのものが変わる」
会議室が静まる。それは大げさな表現ではなかった。
今まで半導体とは巨大工場と巨大投資による巨大設備が前提で、もし別解があるならすべての前提が崩れさる。一方で各国政府も注目し始める。
日本政府へ問い合わせ。
「共同研究の可能性は」
「技術交流は」
「研究者派遣は」
外務省の担当者が苦笑する。
「レアアースの時と同じだな」
実際に非常によく似ていた。最初は誰も信じない。成果が出て解析するが説明できない。海外が注目するという同じ流れだった。
大学内のその頃、明里は食堂でニュースを見ていた。海外ニュースサイトによる大学の計算センターの写真。
「なんか世界的になってる」
玲花が画面を見る。記事には"世界で最も奇妙な半導体研究"と書かれていた。
玲花はため息をつく。
「奇妙なのは否定できない」
蓮はカレーを食べながら記事を見る。
「海外からも利用希望が来ています」
「何件?」
「三百件以上」
明里が吹き出す。
「三百!?」
研究者と企業と研究所など世界中から利用枠は増えている。しかし需要の方がもっと増えていた。桜庭教授は少し複雑な表情だった。レアアースの時は危機を解決した。今度は計算資源不足を解決しようとした。しかし解決した結果は世界規模の需要が集まってきた。
夜の研究室の窓の外には第二計算棟がある。さらに第三計算棟予定地が見えた。
桜庭が呟く。
「また大きくなりそうだな」
玲花が苦笑する。
「毎回そう言ってません?」
「毎回当たっている」
その頃、海の向こうではアメリカの大手クラウド企業と欧州の研究機関とアジア各国の大学は同じ資料を見ていた。性能評価結果、解析報告書、運用実績から皆が同じ結論に辿り着く。
「作り方は分からない。」
「だが、本物だ。」
その認識が共有された瞬間。この大学の計算センターは日本の研究設備ではなく、世界中の研究者が注目する存在へと変わり始めていた。
◆「作れるはずだった」
海外からの注目が集まり始めて数か月が過ぎた頃。解析報告書は関係機関の間で共有されていた。もちろん製造方法は分からないが構造は分かる。
半導体業界の多くの技術者は同じことを考えた。
「なら構造を真似すればいい」と極めて自然な発想だった。
実際に競合製品を解析することは半導体開発ではよくある。構造を理解して参考に改良するのは業界の日常だった。
第一陣
まず挑戦したのは海外の大手メーカーだった。最新設備と優秀な技術者による莫大な予算を注ぎ込んだ。そして、解析結果を見ながら設計を起こす。
「理論上は可能だ」
「歩留まりは悪そうだが」
「試作ならいける」
誰もがそう考えた。半年後には試作品完成し評価開始した結果。性能向上はしたが大学版には届かない。
メモリ帯域で約八割。消費電力は一・五倍。発熱は大幅増加。
技術者たちは首を傾げた。
「構造は同じなのに」
第二陣
今度は研究機関による解析装置も世界最高クラスの国家プロジェクト。さらに細かく原子レベル、結晶レベルまで調べあげる。応力分布も徹底的に行われた。一年後に試作成功したが結果は似ていた。性能は近いが大学版には届かない。
「何かが違う」という結論がくだされた。
第三陣
ある研究者は別の発想をした。「構造ではなく材料では?」と新材料を試す。特殊工程と未知の熱処理を試す。何百通り、何千通りの結果が部分的には改善。しかし全体最適にならないでどこかを良くするとどこかが悪くなる。まるで通常の半導体開発そのものだった。
国際会議の一年後の半導体学会の特別セッションのテーマは
「大学HBM構造の再現研究」
発表者たちの結論は驚くほど似ていた。
「再現できない」
「理由は不明」
「構造だけでは説明できない」
ある研究者が言う。
「建築図面はある、だが建てると別の建物になる」
会場から苦笑が漏れるほど非常に分かりやすかった。設計図通り、寸法通りで材料も同じなのに性能が違う。
日本にもその報告は大学にも届いた。
桜庭研究室で明里が資料を読んでいる。
「みんな失敗してる」
玲花が頷く。
「失敗というか近づいてはいる。でも届かない」
資料では世界中の試作結果はどれも優秀で普通なら大成功。しかし比較対象が悪く大学版が異常すぎた。
若い研究者が言う。
「なぜなんでしょう」
全員の視線が蓮へ向くと蓮は少し考えた。
「たぶん作り方です」
玲花が苦笑する。
「身も蓋もない」
しかしそれが真実だった。完成品だけ見れば同じだが、蓮は作る途中で微調整している。本人も意識しないレベルで応力、結晶、不純物、局所構造が整っている。その積み重ねが最終的に性能差になる。
そして世界中の研究者が少しずつ理解し始める。解析でき測定でき模倣もできるが、再現はできない。ある海外研究者は論文の結論にこう書いた。
「対象構造の幾何学的再現には成功した。しかし性能再現には失敗した。」
その次の一文は業界で話題になった。
「我々は完成品を観察しているが、完成に至る過程を観察していない。」
それは遠回しな表現だった。しかし技術者たちは理解していた。問題は構造ではない、問題は。『作る瞬間に何が起きているのか』そこだけが依然として誰にも分からなかった。