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第74話 積むという壁

作者:急急如律令


2026/05/22 15:00 公開

夕方。試作ラインに戻ってきた若い技術者が、珍しく無言だった。

「どうしたの?」

明里が聞く。返事の代わりに、一枚の資料を机に置く。「HBM試作協力依頼」空気が少し止まる。
玲花が資料を手に取る。

「……本当に来た」

差出人は、大学外の共同研究先。AI向けアクセラレータを研究しているグループだった。要求はシンプル。「積層メモリ試作の可能性評価」

桜庭がゆっくり椅子に座る。
「早かったな」

若い技術者が苦笑する。
「完全に目を付けられてます」

資料をめくる。現行HBM構造。積層メモリ。TSV。超高密度配線。

玲花が眉をひそめる。

「……これ、“積む”やつよね」
「はい」

明里がホワイトボードに図を書く。通常メモリ。横に並ぶ。HBM。縦に積む。

「距離を消す、だから速い」

若い技術者が続ける。

「でも、製造難易度が異常です」

TSV。シリコン貫通電極。ウェーハを貫通する微細穴。そこへ配線を通す。

玲花が資料を見ながら呟く。

「これ、位置ズレしたら終わりじゃない」
「終わりです」

即答だった。

「しかも積層数が増えるほど難しくなる」

明里が蓮を見る。

「できそう?」

部屋が静かになる。蓮はすぐには答えなかった。資料を見て、図面を見てしばらく考える。そして、静かに言う。

「形成は可能です、ただし位置合わせが難しい」

若い技術者が頷く。

「ですよね」

「単層なら、局所修正で合わせられる。でも積層すると誤差が累積します」

桜庭が腕を組む。

「“積む”だけで難易度が跳ね上がる理由だ」

明里がホワイトボードへ向かう。

「じゃあ、全部一気に作る?」

若い技術者が、真顔で考え込む。

「……理論上は」

玲花がすぐに言う。

「熱で死ぬ、あと応力も。積層すると歪むので冷却後にズレる可能性があります」


桜庭が、静かに言った。

「面白いな」

全員が見る。

「今までは“平面”だった。次は“立体”だ」

その言葉で、空気が変わる。
「でも、利点はあります。HBMは配線距離そのものが価値になる」

明里が頷く。

「蓮の能力と噛み合う、普通は配線が長くなる。だから消費電力が増える。でも最短経路を物理的に形成できるなら“積層の弱点”が減る」

「かなり」

若い技術者の声が少し熱を帯びる。

「TSV周辺のロスも減らせるかもしれない。局所キャッシュ構造も自由度が増える」

明里が吹き出す。

「始まったね」

完全に研究者の顔だった。だが、桜庭が静かに釘を刺す。

「浮かれるな」

空気が引き締まる。

「HBMは世界最難関の量産技術の一つだ。試作成功と量産成立は別物」

玲花が頷く。
「また“研究用限定”になりそうね、おそらくそれで十分危ない」


危ない。その意味を、全員が理解していた。もしHBM試作速度が桁違いに上がればAI用半導体開発速度そのものが変わる。

蓮は静かに資料を閉じた。

「まず、一層で試します」
「積まない?」

明里が聞く。蓮は頷く。

「基準が必要です」

「ちゃんと工学してる……」

玲花が肩をすくめる。

「最初からそうしなさいよ」

小さな笑い。だが全員の目は、すでに次を見ていた。平面の先“立体半導体”の領域を。

◆「結局、DRAMって何なの?」

試作ライン横の小会議室。ホワイトボードの前に桜庭が立ち、明里は椅子を逆向きにして座っていた。

「で」

明里がペンを回しながら言う。
「HBMがすごいのは分かった。でも、そもそもDRAMって何?」

玲花が吹き出す。
「そこから?」
「いや、名前は知ってるよ!?」

明里が抗議する。
「でも、“何してる部品なのか”は曖昧!」

桜庭が小さく笑った。
「むしろ正しい」

ホワイトボードに、大きく二つ書く。

・計算する場所
・覚えておく場所

「CPUやGPUは計算する」

その横に四角を書く。

「DRAMは、一時的に覚えておく」

明里が首を傾げる。

「保存ならSSDとかじゃないの?」
「違う、SSDは遅いけど消えない。DRAMは速いけど消える」
「消える?」

桜庭が頷く。
「DRAMは、放っておくと忘れる」

明里が真顔になる。
「生き物?」

玲花が笑う。
「ちょっと分かる」

ホワイトボードに小さな図を書く。

・コンデンサ。
・トランジスタ。

「DRAMの基本構造はこれだけだ。小さな電気を溜めて0か1を表す」


指でコンデンサを指す。
「でも電気は漏れる」
「あー」

明里が頷く。
「だから定期的に入れ直すのか」
「そうそれが“リフレッシュ”」
「DRAMは、ずっと自分で“思い出し続けてる”」

明里が笑う。
「めちゃくちゃ非効率じゃない?」

桜庭が続ける。
「その代わり小さく作れる」

ホワイトボードいっぱいに、小さなマスを書く。

「構造が単純だから大量に詰め込める」

玲花がまとめる。
「つまり大量に置ける一時記憶」
「そういうことだ」

明里が少し考える。

「じゃあAIで重要なのって」
「大量のデータを近くに置けるか?」
「正解」

若い技術者が即答する。ホワイトボードに、巨大な矢印を書く。

GPU ←→ DRAM

「AIは延々とデータを読む。計算より移動のほうが重いことも多い」

明里が目を丸くする。

「じゃあCPUとかGPUって待ち時間だらけ?」
「かなり」

桜庭が腕を組む。
「今の半導体は、“どれだけ待たせないか”の戦いだ」
「だからHBM?」
「そう」

ホワイトボードに縦積み構造を書く。

通常メモリ:横。
HBM:縦。
「近づける、距離が短いと速い、省電力、大量に流せる」

明里が感心したように言う。

「物流の倉庫みたい」

桜庭が笑う。
「半導体はだいたい物流だ」

玲花が横から言う。
「演算器は工場、DRAMは倉庫、配線は道路」
「分かりやす……」

明里が頷く。

若い技術者が付け加える。

「だから今道路が足りなくなってる」
「AIブームで?」
「そうです演算器は速くなった。でもデータが届かない。だからHBMが高騰してる」

明里がスマホの記事を見る。

「本当に“倉庫不足”なんだ」

桜庭は静かに頷く。
「しかも超高級倉庫だ」

小さな笑い。だが、明里がふと真顔になる。
「じゃあ、蓮の配線最適化って」

空気が少し止まる。
「かなり危ないです。配線効率が上がるとメモリ性能そのものが変わる」

玲花が小さく笑う。
「だから皆、HBMやりたがるのね」
「はい」

桜庭がホワイトボードを見る。

・積層図。
・配線。
・DRAMセル。

そして静かに言った。
「次の戦場は、演算器じゃない。記憶と接続だ」

部屋が静かになる。明里は椅子を回しながら呟いた。
「半導体って、思ったより地味な理由で進化してるんだね」

玲花が即答する。
「最先端ほど地味よ」

その言葉に、誰も反論しなかった。

◆最初の一層

試作ラインの空気は、いつもより静かだった。机の上には、一枚の設計図。
派手さはない。GPUでも、AIアクセラレータでもない。

単層DRAM試作

明里が図面を見ながら言う。
「なんか地味だね」

玲花が即答する。
「地味なやつほど難しいのよ」

若い技術者が苦笑する。
「実際、かなり難しいです」

ホワイトボードへ向かう。DRAMセルを書く。

・トランジスタ。
・コンデンサ。

「構造自体は単純です」

コンデンサ部分を丸で囲む。

「でも、小さい電荷を、ちゃんと保持しないといけない」
「漏れるんだっけ」
「はい、しかも」

図を拡大する。
「隣同士で干渉します」

明里が眉をひそめる。
「電気が漏れ合う?」
「近いです。セルを小さくするほど保持も干渉も厳しくなる」

玲花が腕を組む。
「だからDRAMは難しいのね」
「“動く”だけなら簡単です。でも大量に並べると急に地獄になる」

桜庭が静かに言った。
「だから今回は、一層だけだ」

積層はしない。まずは単層で基準を作る。

試作開始。ガイド構造が形成される。通常より細かいDRAMは“均一性”が重要だった。わずかなズレが、そのまま保持時間差になる。

明里がモニターを覗き込む。
「うわ、細か……」

蓮は静かにウェーハへ手をかざしている。いつものような、一気に形成する感覚ではない。ゆっくり。極端に慎重。

若い技術者が呟く。
「速度より均一性を優先してる……」

玲花が頷く。
「DRAMはそっちの世界よ」

形成終了。単層DRAM試作チップ。見た目は普通だった。だが。

「評価します」

ボードに載せる。電源投入。最初のテスト。読み出し。

「……動いた」

小さく空気が緩む。次。保持時間測定。ここで空気が変わる。

通常DRAM:一定時間で電荷減衰。
試作DRAM:減衰が遅い。

「……長い。保持時間、かなり伸びてます」

明里が首を傾げる。
「なんで?」

若い技術者がログを拡大する。

「セルばらつきが少ない。あと配線抵抗が低い」

桜庭が頷く。
「形成精度が効いてる」

つまり “綺麗に作りすぎている”

玲花が小さく笑う。
「また変な方向に性能出てる」

だが。問題は次に出た。連続アクセス。

「……遅い?」

通常DRAMより、若干レスポンスが悪い。若い技術者が眉をひそめる。

「保持重視で駆動側を弱くしすぎたか」

明里が笑う。
「安定型なんだ」
「試作一号ですからね」

さらに評価。発熱。ここで、全員が少し黙った。
「低い」

消費電力が、予想よりかなり小さい。

「リークが少ない」
「再送電力も減ってる」

桜庭が静かに言う。
「……面白いな、高速ではない。だが、異様に綺麗だ」

玲花がホワイトボードを見る。

通常DRAM:速度重視。

試作DRAM:均一性重視。

「方向性が違うのね」

若い技術者は、ゆっくり頷く。
「これ、積層向きかもしれません」

空気が止まる。

「単層では遅い。でも積んだ時に効く可能性があります」

明里が身を乗り出す。
「熱?」
「はい」
「積層DRAMは熱が厳しい。リークも問題になる」

ログを指す。
「でも、これは発熱が少ない」

桜庭が静かに笑う。
「“弱い”が、別の場所で武器になるか」

蓮は何も言わず、測定結果を見ていた。綺麗な波形。均一な分布。“整っている”。その感覚が、数字になって現れている。

明里が伸びをする。
「で、次は?」

若い技術者は、少し黙ってから答えた。
「積みます」

玲花が即答する。
「地獄の始まりね」

誰も否定しなかった。