2025/11/18 15:00 公開
研究プロジェクトは一つの節目を迎えていた。桜庭教授の論文は派手さこそなかったが、一定の評価を受け、海外チームとの共同研究も動き出した。そして金加工事業も、明里の技術によって小規模ながら安定した収益を上げ始めている。
その全てが、嵐のような数ヶ月を駆け抜けてきた証だった。
そんなある日の夕方、篠崎蓮は明里に声をかけた。
「明里、今日は……少し時間、ある?」
「え? うん。大丈夫だけど……」
返事を聞いた瞬間、蓮はそっと息をついた。とうとう、これを実行する時が来たのだ。連れてこられた場所を見て、明里は目を丸くした。
「……え、ちょ、ちょっと……ここって……」
「うん。予約しておいた」
都心にそびえる高層ホテル。ガラスのエントランスには柔らかな光があふれ、ラウンジからはジャズの旋律が流れてくる。
いつも作業用エプロン姿の明里が、今日は淡いベージュのドレスを着ている。ハーフアップに結った髪が横顔を美しく縁取り、首元の小さな金のペンダントが静かに揺れていた。
「いや、ほんとに……すご……」
「頑張ったご褒美、ってことで」
蓮が言うと、明里は困ったように頬を染めた。
「ご褒美って……そんなの……」
「じゃあ、ただの“デート”ってことでいい?」
「かッ……かってに決めないでよ……!」
声とは裏腹に、明里の耳は赤かった。
予約していた窓際席からは、街の光が星のように広がっていた。
「こんなとこ、人生で来ると思わなかった……」
「こういうの、一度くらいはしたかったんだ。明里と」
「……ん」
料理が運ばれるたび、明里の表情は驚きと感動でくるくる変わっていく。
「これ、全部……今日のために?」
「うん。明里、ずっと頑張ってくれてたし」
「それは蓮くんがいたからでしょ……」
グラスを持つ明里の手が小さく震える。蓮はそっと、グラスを合わせた。
「“成功記念”に、乾杯」
「……乾杯」
透き通る音が、夜景に溶けて消えた。食事を楽しみながら話すうちに、自然と二人の距離は近くなっていく。
「ねえ……蓮くんってさ」
「ん?」
「ずっと私のこと見てたでしょ。研究室でも、加工の時も」
「そりゃ……心配だったから」
「心配って……なんか違う気がするけど」
冗談めかして言うのに、明里の声はどこか甘かった。蓮は言葉を選びながら、ゆっくり言葉を返す。
「……僕は明里がいてくれると、安心する。一緒にやってきてよかったって、本気で思ってるよ」
明里はグラスを置き、まっすぐに蓮を見た。
「……ずるいよ、そういうの」
言いながら、そっと蓮の手に触れる。普段なら慌てて引っ込めるはずなのに、今日はそのままだった。食後、蓮は明里を屋上のルーフトップバーへ連れ出した。夜風が心地よく、遠くに花火の音が聞こえる。
「綺麗……」
「明里もだよ」
「なっ……!」
明里は一瞬言葉を失い、俯いた。
「こういうとこ来ると、ほんとに実感するんだ」
「実感?」
「うん……。蓮くんと一緒に頑張って、“ちゃんと成功したんだ”って」
その声はかすかに震えている。蓮はそっと明里の手を取り、確かに握った。
「明里。ありがとう。今日まで、一緒に来てくれて」
「……うん。私も……ありがと」
二人の影が、夜景の上で重なり合う。その時、遠くで一段と大きな花火が上がり、明里は驚いて蓮の腕にしがみついた。
「び、びっくりしたぁ……!」
「大丈夫。……ほら、記念日みたいでしょ?」
明里は蓮の肩に寄りかかったまま、小さな声で笑った。
「……ほんとだね」
帰りのタクシー。街灯が車内を横切るたびに、明里の横顔が少しずつ表情を変える。
「ねえ……蓮くん」
「ん?」
「また……こういう夜、連れてってくれる?」
「もちろん。もっと豪華にしてもいい?」
「……そんなの、期待しちゃうじゃん」
軽く肩を当ててくる明里の耳は、真っ赤だった。こうして二人は、事業の成功と、小さな恋の大きな一歩を静かに祝った。