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第71話 光で削る世界

作者:急急如律令


2026/05/02 15:00 公開

クリーンルームの前で、全員が白い防護服に身を包んでいた。無機質な空間。音はほとんどない。

「ここから先は、塵一つでもアウトです」

案内役の技術者が淡々と言う。

「人間が一番汚いので」

軽い冗談のようで、誰も笑わない。エアシャワーを抜けると、別の世界だった。

空気が違う。静かで、均一で、どこか“整いすぎている”。

「こちらがリソグラフィー工程です」

巨大な装置の前で足が止まる。ガラスの向こうに、精密機器が並んでいる。
若い技術者が、小さく息を呑む。

「……これが」
「露光装置です」

スクリーンに映像が映る。ウェーハの上に、薄い膜が塗られる。

「フォトレジスト」

案内役が続ける。

「光に反応して性質が変わる材料です」
「その上から」

別の映像。マスクが重ねられる。回路パターンが描かれた板。

「これを通して光を当てます」

玲花が腕を組んだまま聞いている。

「光で、回路を描くのね」
「正確には」

案内役は言い直す。

「光で“描く準備”をする、です」

露光。わずかな時間で終わる。だが、その一瞬のために、すべてが整えられている。

「露光後」

画面が切り替わる。

「現像で不要な部分を取り除き」
「エッチングで削ります」

ウェーハの表面が、少しずつ削られていく。見えないレベルの加工。

「これを何十回も繰り返します」

明里が小さく口笛を吹く。

「気が遠くなるね」
「実際、時間はかかります」

案内役は頷く。

「ですが」

装置を軽く叩く。

「精度は保証されます」

若い技術者が前に出る。

「位置合わせの誤差は?」
「ナノメートル単位で制御しています」

沈黙。蓮は、ガラス越しにウェーハを見ていた。何層にも重ねられた構造。

光で、削って、積み上げる。

「……遅いですね」

ぽつりと言う。一瞬、空気が止まる。案内役が振り向く。

「え?」

蓮は悪気なく続ける。

「工程が、多いです」

玲花が小さくため息をつく。

「そういうものよ」

案内役は少しだけ苦笑する。

「これでも最先端です」

桜庭が横から口を挟む。

「“遅い”のは事実だ」

全員の視線が集まる。

「だが」

桜庭は装置を見る。

「この遅さが」

一拍。

「再現性を生む」

若い技術者が静かに頷く。

「一工程ずつ積み上げるから。どこでズレたか分かる。だから直せる」

蓮は何も言わない。画面では、次の層が形成されていく。同じ工程。同じ精度。

桜庭が続ける。

「君のやり方は逆だ」

蓮が視線を向ける。

「最初から完成形を作る。速い、だが」

少しだけ間を置く。

「どこでズレたか分からない」

明里が腕を組む。

「確かにね」

玲花が小さく言う。

「直せないものは、使えない」

再び装置に視線が戻る。光が当たる。削られる。積み上がる。その繰り返しの中に、人間が理解できる範囲の技術がある。

若い技術者が、ぽつりと呟く。

「……両方、いるな」

誰も否定しなかった。一方は、速すぎる。一方は、遅すぎる。その間にしか、現実の技術は存在できない。

見学が終わり、クリーンルームを出る。防護服を脱ぎながら、明里が言う。

「で、どうする?」

玲花は短く答える。

「全部置き換える気はないわ」

◆光を使わない露光

「じゃあ」

明里が装置の前で振り返る。

「やってみる?」

リソグラフィー工程の見学から戻ってきた直後だった。机の上には、未加工のウェーハ。横には、回路パターンの設計データ。

若い技術者が腕を組む。

「理屈では可能です。フォトレジストも、露光も、エッチングも」

一つずつ指を折る。

「全部、構造変化で置き換えられる」

玲花が短く言う。

「つまり?」

「直接書けます」

全員の視線が、蓮に集まる。蓮は静かに頷いた。ウェーハの上に手をかざす。空気がわずかに張る。
通常なら、
・レジスト塗布
・マスク配置
・露光
・現像
・エッチング

何段階も必要な工程。それが、一瞬で圧縮される。表面が、変わる。見た目はほとんど変化しない。だが内部では、回路パターンに沿って構造が切り替わっていく。

数秒。

蓮が手を下ろす。

「完了しました」

沈黙。若い技術者がすぐに測定へ回す。

「断面見ます」

モニターに映像が出る。

「……出てる」

誰かが呟く。確かに回路は形成されていた。層構造、配線、トランジスタ形状。すべて揃っている。

明里が軽く笑う。

「本当に一発だ」

だが、その直後。

「……あれ?」

測定担当が首を傾げる。

「線幅が」

拡大表示。

「設計より太い」

別の箇所。

「こっちは細い」
「ばらついてる?」

若い技術者が顔を近づける。

「そんなはずない」

さらに倍率を上げる。

沈黙。

「……揺れてる」

回路の境界が、完全に固定されていない。ナノスケールで、わずかに歪んでいる。

「どういうことだ」

蓮は静かに言う。

「構造としては、安定しています」
「いや、でも」

若い技術者が首を振る。

「これじゃ、ノードが揃わない」

桜庭が、後ろから口を挟む。

「当然だ」

全員が振り向く。

「リソグラフィーは」

桜庭はゆっくり言う。

「“光で境界を固定する技術”だ」

黒板もないのに、空中に線を描くように続ける。

「波長という基準がある、だから、線幅が決まる」

蓮のウェーハを指す。

「だがこれは違う、基準がない」

空気が止まる。

「どこまでが回路で、どこからがそうでないか。それを決める“物理的な刃”が存在しない」

明里が小さく頷く。

「だから、曖昧になる」

若い技術者が呟く。

「境界が、定義できてない…」

測定結果が続く。

「線幅ばらつき、±数ナノ…いや。場所によってはそれ以上」

玲花が腕を組む。

「使えないレベル?」

若い技術者は即答しない。少し考えてから言う。

「このままじゃ、量産は無理です」

蓮は静かに聞いている。

「……どうすればいい」

その問いは、誰に向けたものでもなかった。

桜庭が答える。

「制約を入れろ」
「制約?」
「そうだ」
「光の代わりになる“基準”を作る」

沈黙。

明里がゆっくり言う。

「……ガイドを先に作る?」

若い技術者の目が動く。

「粗い構造だけ先に固定して」
「その中で細部を作る」

玲花が小さく笑う。「完全自由をやめるのね」

蓮が、わずかに頷く。

「可能です」

その一言で、方向が決まる。若い技術者が息を吐く。

「……なるほど」
「光は、制約だったんだ」

誰も否定しなかった。机の上のウェーハ。完璧に作られたはずの回路は、“自由すぎて”形を保てなかった。
桜庭が最後に言う。「微細化とは、自由を削ることだ」
その意味を、全員が理解し始めていた。




机の上に、二枚のウェーハが並んでいた。一枚は、これまでと同じ。錬金で一発生成されたもの。もう一枚はあえて“粗く”作られたものだった。

「これがガイド構造です」
若い技術者が説明する。ウェーハ表面には、粗いラインが走っている。間隔は広く、精度もそこまで高くない。
「ここまでは、従来工程でも作れるレベルに落としてます」

玲花が覗き込む。
「わざと雑にしてるのね」
「はい」
若い技術者は頷く。
「ここで“枠”を決める」

明里が続ける。
「で、その中を――」
視線が、蓮に向く。

「詰める」

蓮は静かに手をかざす。

粗いガイドの間。空白になっている領域に、細い構造が流れ込むように形成されていく。

今度は違う。境界が、揺れない。ガイドがあることで、どこまで作るかが固定されている。

数秒。

「……できました」

測定。全員が画面を見る。

「線幅、安定してます」
「ばらつき……ほぼゼロ」
「解像度……」
誰かが止まる。

「これ、既存より細いぞ」

沈黙。明里が小さく笑う。
「やったね」

若い技術者は、すぐには笑わなかった。

「……もう一枚」

別のウェーハ。同じ手順。ガイド構造を用意し、蓮が内部を埋める。

結果。

「……再現してる」

今度は、はっきりと空気が変わる。

「いける」
誰かが呟く。

「微細化、突破した」

玲花が腕を組む。「光、いらないじゃない」

誰も否定しない。

だが。

若い技術者は、まだ画面を見ていた。

「……待ってください」

全員の動きが止まる。

「これ、小さい範囲だからできてる」

拡大表示から、全体表示へ。

「このサイズなら問題ない」
「でも」
別のデータを呼び出す。

「チップ全体でやると」

シミュレーション結果。

一部で、わずかなズレ。

「ガイド同士の接続部で歪みが出る」
「長距離で整合が取れない」

明里が眉をひそめる。
「……繋がらない?」
「完全には」

沈黙。

桜庭が、静かに言う。
「スケールの問題だな。局所では安定する。だが、全体では累積する」

若い技術者が頷く。
「ガイドの精度が足りない」
「でも精度を上げると」

玲花が言う。
「今度は時間がかかる」
「はい」

つまり。

ガイドを粗くすれば → 速いがズレる
ガイドを細かくすれば → 正確だが遅い



明里が苦笑する。
「どっちも欲しいね」

蓮は静かに言う。
「段階的に構築する方法なら」

全員が振り向く。

「大きな構造を先に安定させて」
「その中で細部を構築する」

若い技術者が目を細める。
「階層化…」

桜庭が頷く。
「それなら理屈は通る」

玲花が小さく笑う。「結局、“積む”のね」

机の上のウェーハ。そこには、確かに未来があった。だが同時に、はっきりしていた。“作れる”ことと、“作り続けられる”ことは違う。

若い技術者が、深く息を吐く。
「……量産は、まだ先ですね」

誰も反論しなかった。だがその顔には、諦めはなかった。

明里が軽く肩を叩く。
「でもさ、もう戻れないよ?」

その言葉に、全員が静かに頷いた。


◆評価という現実

ケースに収められたウェーハを、若い技術者が静かに机の上へ置いた。透明な蓋の下。ガイド構造と、その内側に形成された微細回路。見た目には分からない。だが、これまでのものとは明確に違う。

「……これが?」

対面に座る研究室の主任が、眼鏡越しに覗き込む。

「はい」

若い技術者は短く答える。

「ガイド構造と……新しい形成プロセスで作りました」

言葉を少し選ぶ。

「試作品です」

玲花は横で腕を組んでいる。明里は椅子に浅く座り、蓮は静かに立っていた。主任はしばらく黙って見てから言った。

「測定は?」
「基本特性は確認済みです」
「局所では既存プロセスを上回ります」
「局所では、ね」

主任はそれ以上言わない。評価が始まる。ウェーハは装置に運ばれ、プローブが当てられる。モニターに数値が流れる。

「……速いな」

別の研究員が呟く。

「しきい値、安定してます」
「リークも少ない」
「このサイズでこの性能は……」

空気が少しだけ緩む。だが、すぐに次のデータが出る。

「……ああ」

主任が小さく声を出す。画面には、マップ表示。ウェーハ全体の特性分布。中心付近は、ほぼ完璧。だが周辺に行くほど、わずかなズレが広がっている。

若い技術者が説明する。

「ガイド構造の接続部で誤差が出ます」
「現状では、このサイズが限界です」

主任は頷く。

「聞いていた通りだな」

沈黙。主任は椅子に深く座り直す。

「結論から言おう」

全員の視線が集まる。

「これは量産には使えない」

若い技術者は目を逸らさない。

「だが」

主任は続ける。

「試作には、極めて有用だ」

空気が変わる。

「この精度で、この速度。設計の検証が一気に進む」

別の研究員が口を挟む。

「新構造のテストにも使える」
「従来だと、一本作るのに何週間もかかるやつだ」

明里が小さく笑う。

「やっぱりそこか」

主任は頷く。

「用途は明確だ」

黒板に書く。

試作専用

「量産プロセスの代替ではない」
振り返る。
「量産プロセスを“前に進める”ための道具になる」

玲花が口元を上げる。

「つまり、裏方ね」
「そうだ」

主任はウェーハをもう一度見る。

「これを量産に使おうとするな」

はっきりと言う。

「欲張ると、全部壊れる」

沈黙。

若い技術者は、ゆっくり頷いた。

「……分かりました」

だが、その目は明らかに変わっていた。

「試作に使わせてください」

主任は即答する。

「歓迎する。ただし条件がある」

全員が顔を上げる。

「データは全部残せ、再現できる形で共有しろ」

桜庭が後ろから口を挟む。

「“分からないまま進めるな”ということだ」

主任は頷く。

「これは道具だ、魔法じゃない」

その言葉に、蓮は何も言わなかった。評価が終わる。ウェーハはケースに戻される。部屋を出る直前、主任が一言だけ付け加えた。

「いいものを持ってきたな」

少しだけ笑う。

「使い方を間違えなければ、だが」

廊下に出ると、空気が軽くなった。明里が伸びをする。

「合格、かな」

玲花は短く答える。

「限定付きでね」

若い技術者はケースを見つめる。

「……十分です」

その声は、静かだったが迷いはなかった。 “世界を変える技術”ではなく、“世界を変える前段階の道具”として使う。


◆境界をまたぐ計画

会議室の空気は、講義室とも実験室とも違っていた。長机が並び、資料が整然と配られている。そこに座っているのは、同じ大学でも普段は顔を合わせない面々だった。

デバイス物性。
回路設計。
材料工学。
情報系。

それぞれが、別々の“言語”を持っている。桜庭が、いつもの調子で口を開いた。
「時間がないので、結論から話します」

スライドが切り替わる。横断プロジェクト設立案。ざわつきは、すぐに収まる。

「今回の技術は」

桜庭は淡々と続ける。

「一つの研究室では扱えません。設計だけでは意味がない。試作だけでも意味がない。評価だけでも意味がない。全部、同時に回す必要がある」

別の教授が腕を組む。

「つまり?」

若い技術者が、少しだけ前に出る。

「設計・試作・評価を一体化したラインを作ります」

スライドが切り替わる。

・設計班
・試作班
・評価班

「設計班が回路を考える。試作班が即座に形にする。評価班がその場で測定する」

明里が補足する。

「ループを止めない」

玲花が短く言う。

「一日で何十回も回す」

ざわめき。

「そんなこと、現実的に――」

言いかけた教授が、言葉を止める。“可能にする要素”が、この場にはある。

桜庭が続ける。

「ただし条件があります」

スライドが変わる。制約。

・試作専用(量産禁止)
・データ完全共有
・再現性の記録義務

「この三つを守れないなら、このプロジェクトは成立しません」

沈黙。材料系の教授が口を開く。

「ブラックボックスになるのでは?」

桜庭は即答する。

「なります」

ざわつく。指で資料を叩く。

「だからこそデータを残す。理解が追いつかないのは構わない。だが、再現できない状態は許さない」

回路設計の教授が、ゆっくり頷く。

「……理論は後から追う、か」
「そうです」

玲花が口を挟む。

「逆よ」

全員が見る。「結果が先。理論が後」

短い沈黙。だが、誰も否定しない。

情報系の准教授が手を上げる。

「利用側はどうする?」

若い技術者が答える。

「用途を限定します」

スライドが変わる。

・新構造トランジスタ
・高速試作チップ
・特殊用途デバイス

「量産品には使わない。評価と検証に限定する」

桜庭が付け加える。

「“前に進めるための装置”として使う」

やがて、材料系の教授が息を吐く。

「……分野をまたぐ、か」
「ええ」

桜庭は頷く。

「今までは、それぞれが最適化していた。これからは全部まとめて最適化する」

会議室の空気が、ゆっくり変わる。誰かが呟く。

「研究じゃないな、もう」

玲花が即答する。
「研究よ。ただし、速度が違うだけ」

小さな笑いが漏れる。最終的に、全員の視線が一箇所に集まる。

「……やるのか?」

桜庭は、迷いなく答えた。「やる」

若い技術者も、続く。「やらない理由がありません」

一人、また一人と頷く。書類が回される。ペンが走る。形式上の承認。

だが実際には、もっと重いものだった。 研究のやり方そのものを変える合意。会議が終わる。

廊下に出たところで、明里が笑う。

「大ごとになったね」

玲花は肩をすくめる。

「最初からそのつもりでしょ」

蓮は静かに言う。

「準備します」

若い技術者が、少しだけ笑った。

「忙しくなりますよ」

誰も否定しなかった。